ワクチン打って、電車の背もたれが反っている ①

研究の世界は日進月歩ということで、

新型コロナウイルスという言葉、時代の流れに遅れているそうです。

もう、「コロナウイルス」とふつうに言えばいいみたい。

 

もともと、アジア諸国、日本には、土着のコロナウイルスが4種いたそうです。

これが、「風邪」とか「感冒」とかのウイルスです。

 

ウイルス学の専門家からすると、

これが 「第1の免疫」 だそうです。

 

そして、2020年2月、中国の方々が大挙して、春節(元旦みたいなもの)の時期に日本に旅行に来られた。

 

このとき、弱毒性新型コロナウイルスが日本に入り込んでいたそうです。これにより、日本国内で「集団免疫」が形成された、と言います。

 

これが 「第2の免疫」ということです。

 

この専門家によりますと、すでに 「二重の免疫」 が形成されているため、わたしたち日本人は、 「すでにワクチンを接種している」 ことになるそうです。

 

そういうものなんだそうです。

 

免疫というのは、人体の警報防御システムです。

ルパン三世とか、スパイ映画とかで、建物に侵入すると警報が鳴りますね。

すると、「だーっ」と警備員とか兵とかが大挙して現れます。

 

免疫の場合は、兵ではなく 「抗体」 を出しますが、システムとしてはあんな感じです。

 

だから、一度そのシステムを構築してしまえば、基本的にはそれほど怖れることはない、ということでした。

 

もちろん、免疫が作動するにはいろいろと条件があることだと思います。体調がわるいとか、持病があるとか。これらがあると、体内の警報防御システムが機能しません。

 

抗体検査というのがありますが、体内に 「抗体」 があれば、異物の感染があった証拠になる、というものです。

 

新型コロナウイルスの場合 「抗体」 の存在する日数が 36日 だそうです。

 

それ以上経つと 「抗体」 はいったん体内から姿をくらまします。

 

なので感染から 36日 経ったあと抗体検査をやっても、感染したかどうかの判断はつかない、ということになります。

 

抗体検査で陰性、だから「罹ってない」とはならない、のだそうです。

 

 免疫ってすごい機能ですね。

 

見えないものに恐怖し、遠ざけ、かといって、見えないものは信じない。

 

研究して対処することも覚えて、やることは

手洗いうがいと、マスク。

人間て、いまもむかしも、根本的にはなにも変わってないのかもしれません。

ちがうんですメモ帳を忘れるんです

ガラ携を使っています。

auの「WIN」「G’z One」て書いてあるやつ。

 

いくつかありますよ理由。

 

①まだ使える

②丈夫

③小さい

④扱いが雑でいい

⑤ボタンがある

⑥片手で扱える

⑦物持ちがいい

⑧ラストオブ○○にそそられる

⑨ひっくるめて、不便がない

 

これだけの理由があるなかで、そろそろスマホに買い替える所存です。

 

 

・・・・・。

 

古くて良いものを失うって、ほんとうはすごーくイヤですよ。

イヤですけど、しょうがありません。

 

川の魚なので(by 柳ジョージ『コインランドリーブルース』)

 

せっかく乗る流れ。

格安SIMでいきましょう。

 

ただ、未練がましい。

⑤ボタンがある、が捨てがたいです。

 

スマホの危険なとこは、視覚と、指の触圧覚や運動感覚の統合機会が激減することです。つるつる画面をこする操作は、目をつぶって操作するのが困難です。

 

触圧覚を排した、視覚全集中の操作だと、たとえば歩きスマホの場合、周りに気が回せないんです。

 

ガラ携とスマホ、こと感覚について比較してみると、似て非なるものです。

 

人間がこの世に生を受けてから常に行う行動が、「探索」だと言われています。

 

赤ちゃんが手足をばたつかせたり、なんでも口に咥えようとしたり。

 

指も探索します。この「探索」機会を失うのは、正直こわいです。

 

ああこわい。

ネ人です。

はじめましてネ人と申します。43才です。

 

わからないままはじまった人生なので、ブログも、わからないままはじめています。

 

ブログを始めるきっかけは、それはおそらくコロナ禍です。見つめなおす時間が生まれたのでした。

 

思い立ったら水の流れのよう。逆らうことはありません。

 

俳句をつくるようになって6年くらい(多少ブランクありますが)になるのですが、はじめて以来暮らしが変わりました。

 

花を愛でるようになりました。2月いまどきなら、梅が咲いてます。梅って、桜と比べて、地味な役回りですけれど、香りのいい、じつは身近な花なんですね。

 

なぜ桜より地味な役回りなのか。考えてみると、4月に入学式があるからじゃないかと。

 

では梅を写真に撮ってみるとどうかというと、これが、梅の良さをのこすのが難しい。

 

梅は日本人の暮らしに上手く癒着できなかったのかもしれません。

 

とはいえ、昭和期なんかの家の庭には、梅を植えているものが多いように感じます。大きさがちょうどいいのかな。実梅を干すのかな。

 

・・・・・・・。

 

話がそれましたが、とにかくこんなふうに(この程度のレベルですが)、花を愛でるようなりました。

 

カレンダーの二十四節気を気にするようになりました。

 

たとえば、いまごろで言うと18日は 雨水(うすい) です。

手元の資料にはこんなふうに著されています。

「冷たい雪が雨に変わり、野山の雪がゆっくり溶け出すころ。

凍てついた田畑が潤いを取り戻し、いよいよ畑仕事の開始も間近です。」

 

二十四節気を気にするようになって良かったことは、 旬 に敏(さと)くなったことです。

 

旬 を楽しむようになってから、季節のめぐりそのものを豊かなことに感じられるようになりました。

 

菜の花の辛し和えを食したり、春の夕暮れに日が永くなったことを思ったり。

 

散歩が増えました。しかも散歩の時間が長くなりました。

 

高齢の俳人の方に会うと驚くことは、みなさん元気なことです。散歩の量が多く健康なのだと思います。

 

歩く機会を求めるようになると、一駅前で降りる、なんてことまでするようになります。日常や近所に発見がありますよ。発見て、感動です。

 

 

とりあえずこのくらいにしておきます。